――恋猫や 世界を敵に回しても
いつからだか僕の胸の中には小さな黒い犬だか猫だかが棲みついている。
それは僕の表に出す感情以上に素直に僕の感情を表象してしまって時に僕を困惑させる。ぐるぐると唸ってあおあおと甘える、鳴く。父に対してだけは無言だった。困ったような様子で、こちらの様子を伺っている事が感じられた。級友に対しては大抵ひどく退屈そうな様子で欠伸をしながらそっぽを向いているし、キョウカに対してはくうくうと友愛のこもった優しい声をあげた。
何故だかバシン君にはきゅうきゅうと哀れっぽい声をあげた。黙れ、と胸に爪を立てるとそいつは黙った。そしてしばらくは何も言わなかった。
スマイルに対してぎゃんぎゃんと吠えたてた時には、ああこいつは僕の心の中身なのだなと納得した。そう思っていた。一人で納得する僕にスマイルは変な奴と言った。お前には言われたくないよとでも言うように、胸の中の黒い生き物はあおおんと吠えた。
鳴き声が鳴き声なものだから、ずっと犬なのだとばかり思っていた。
そうしたら今度はいつのまにかうああんうああんと赤ん坊のような鳴き声を立てるようになっていた。猫。それも恋猫。
うああんうああん。
猫が、胸の中で恋しい人を求めて鳴く。誰かを。
胸がつかえたように苦しくて水をがぶがぶ飲んだ。猫は溺れかけているように、水っぽい声でうああんと鳴いた。ああん、うああん。うああお。
出して、と胸を引っ掻く。なんて無茶な事を。勝手に居ついて勝手に出たがって、僕だってどうすれば出してやれるのか分からない。いい迷惑だ。
喉の奥から這い上がる爪に血を吐くような痛み。息苦しい。やめろ、やめてくれ。
うあああお。
恋猫が甘い声をあげる。誰に対してなんだ。黒い猫が胸の中で吠える。背をたわめて、首を伸ばして、いとしいものへ叫ぶ。おまえが好きなのは誰なんだ。そいつになにをすればおまえは静かになるんだ。
「おにい、顔色悪いよ」
きゅううん。
「J?なんか具合悪そうだぜ」
みゃああお。
「なんか具合悪そうね」
「どうかしたのかJ?」
「大丈夫?」
ぎゃあお、みゅう、うなあああ。
うるさい!
胸をぎゅっと掴んで息を止める。猫が胸の中で喘ぐのが聞こえる。苦しそうな息。がりがりと咽喉を引っ掻いて喘ぐ。呼吸を止めて耐える。
やがてその声が、聞こえなくなった。
「J」
そうしてああ本当どうしてこいつはこうも神出鬼没なのだろうか。聞きなれた声に振り返るとやっぱり片目のあの人。
でもだいじょうぶもう猫はいない。苦しくもならない。だからちゃんと笑える。何とも思わずにあの人の顔を見れる。
唇の血を拭って振り返る、僕は彼に微笑みかける。彼はちょっとだけ驚いたような顔をしてそして笑い返す。ばかなひと。ぼくはきみのことなんてこれっぽっちもすきではないのに。きみを利用するための薄っぺらな笑みに騙されてきみは僕を好きだと言う、本当に馬鹿な人。
「どうしたんですか、スマイル」
胸の奥で、小さくうああんと声がした。
うるさい、うるさい。おまえはここで死んでいればいいんだ。お前なんてお呼びじゃない。消えてしまえ。
もしもお前の鳴き声が聞こえたら。聞こえてしまったら。
「……お前の方がどうしたんだ。真っ青だぞ」
「べ、つに」
そう言って彼が顔を近づける。
うあああお!
ぞあり、とした。まるでセンサーのように猫が鳴く。息も絶え絶えなのにどうしてそんなに大きな声で鳴くんだ。休んでいればいいのに。何でそんなに苦しそうな声で鳴くんだ。悲鳴みたいに。叫ぶみたいに。気付いてと。
うあああお、ああお。僕に知らせる。やめろ。そんなことには気付きたくもない。僕が隠していたことを暴き立ててお前はそれでどうするんだ。
「?」
「……なに、」
「いま、なんかの鳴きごえが、」
「!」
歯をがり、と噛んで息を止める。苦しげな鳴き声はいよいよ小さくなっていく。
再び途絶えたときには、胸の奥に苦い重さが残っているだけだった。もうこれっきり猫は動きそうになかった。気持ちがちょっとだけすっとして軽くなった。
「………気のせいじゃないですか」
「…、みたいだな」
ばかみたいだ。僕に教えてくれるなんて。そんなこともう知っている、だからこそ殺したのに。
あいしてなんていない。
あいしてなんかいない。
すきになってなんかいない。
だって、この胸の中の猫は死んだのだから。
もう泣かない。
咽喉の奥で苦いような苦しいような味がした。
「ちょっと聞きたい事が、あるんですけど」
「なんだ?」
「きみは猫って、好きですか?」
そう聞くと彼はすこし歪んだような笑みを浮かべた。
「あんまり」
「そうですか、僕もです」
(お前は猫を飼ってるじゃないかといわれたので、お京は別だと答えた)
(そうしたら彼は怪訝な顔をしたのだけれど、別に自分にとって大して意味のある回答ではなかった)
(彼にもそれがわかったのだろうか皮肉げな顔をして彼はお京の頭を撫でた。お京は逃げた)
(そんな彼を見てちょっと笑ってしまったのはきっと間違いではない、そう間違いではない。だってこれは何の親愛の欠片さえ含んでいない笑いなのだから)
(そして君は笑う)
(つくづく皮肉な名前だと思う)
(僕は笑わない)(君が少し困ったような顔をする)
(お京が帰ってくる)
(猫は帰ってこない)