その名の謳われる

最果て

smile×J



 <―――時よ止まれ、お前は美しい。>




「ジャック、お前、死ぬんだろ」

そう言うとジャックはとても不愉快そうな顔で振り向いた。

「……何ですか、それ。死にませんよ」

黒い服の裾が振り向いた動きに釣られくるりと揺れる。全ての造作が様になっている、不愉快そうな表情でさえも。
ああ俺の隣にいた人間はこんなに美しかったのかと改めて認識する。ジャックはそれに不審げな目を向けて、そっぽを向いた。

「君の言うことはよく分からない」
「俺にゃあお前の方がよくわかんねえよ、ケケ」

ふとその白銀の髪を指で梳くと一瞬びくりと肩を震わせるが、なすがままになる。こいつは(多分、一応、今の所は)俺を信頼してくれている、ようだ。少なくとも他のナンバーズの狸親父どもよりは。

…こいつが手に入ったなら全てが変わると思っていた。
たった数ヶ月前の自分でさえも、そんな考えの足りない愚かな子供だった。

多分俺は攫う手順を間違えてしまったのだ。だからこいつは何処かがひずんでしまったのだ。
例えるならメフィストフェレス。そしてファウスト。望みを叶える代価に命を奪う悪魔。それで言うなら俺がメフィストフェレス、か。あいつを白いままで助けてやれなかったのは俺の所為でもある。望んだ事ではないけれど。
あいつは「J」を捨てて「ジャックナイト」になった。白から黒。Jであった総てを捨てて。深遠の瞳が覗き込む淵へ。
どぽり、とコールタールのような闇が溜まった淵に足を突っ込んでしまったあいつをかわいそうだな、と思う。それは嘘じゃない。罠に掛かった鳥を見るようなものだ。
でも助けられないんだ。隣にはいるけれど、俺もそこに足を突っ込んでいるから。互いに助けよう引っ張り上げようとしても結局沈めあう事にしかならないのだ。
だけれど、その俺とジャックとの間には一つ大きな違いがあって。あいつには岸辺に上がるための赤い命綱が垂らされている。必死になって掴めば這い上がれるくらいの。バシン達という命綱。対して俺にはこの沼の中心部に向かうための案内の手すりが付いているだけで決して逃れられはしない。だからあいつが愛おしくて妬ましい。欲しい。奪ってしまいたい。
どろどろとした沼の水のような感情と湧き水に似た清らかな感情が胸の中で交じり合って分離する。溶け合わない。俺はこいつが好きなのに。愛しているのに。どうしてこんなに辛いんだ。
(多分)
(多分それは、いずれ居なくなるのだと分かっているからで)
黒いままで居るのなら、ずっと俺のそばにいてくれる。
白い姿に戻るのなら、あいつはバシンの元へ行ってしまう。
まるで花占いだ。梳き、嫌い、好き、嫌い。うっすらと希望や絶望に感づく小さな願い事。
<ジャック>のままなら、俺のそばに。に戻るなら、あいつの元に。
けれど一度全てを捨てて生まれ変わったジャックから再びJに戻るのはそう簡単にはいかないだろう。(でも、心の奥で、分かっている)(多分ジャックはあいつの方を選ぶのだと)

ジャック。
多分お前は死ぬんだろう。
跡形もなく消えてしまうんだろう。
俺といた日々なんて無かったことになってしまうんだろう。
だって、お前ははじめから、Jなのだから。

(ひとつ聞きたいんだけれど)
(おまえは誰に、何の名前で呼ばれたいんだ)
(……なんて、聞けるはずもない)


ジャックが好きだ。Jが好きだ。その声が、姿が、顔が、まっすぐな心が、脆いところがとてもとても好きだ。

「ジャック、」
「………なんですか」
「すきだ」
「君の言葉は嘘にしか聞こえないんです」
(それはそうだ、俺はジャックではなくてJに言っている)

その声を聞いていたい。髪を梳きたい。瞳を見ていたい。寄り添っていたい。手を繋ぎたいキスをしたい抱きしめたいもっと言うならば抱きたいきつく抱いて抱きしめて自分だけのものにしてしまいたい誰にも触れないように奪われないように誰の眼にも触れないように。
多分お別れはもうすぐだ。それまでに俺はJを奪ってしまいたい。でもジャックがJになるということは俺といた日々とかそうした何もかもをリセットするという事だ。でもひずんだままのお前に何も出来なくて燻ぶって死んでゆくそんなのは嫌だ。

「そういう言葉は嫌いなんです」
「何で」
「嘘みたいだから」
「嘘じゃない」
「君が本当のことを言っているなら僕の耳の方が歪んでいるんです。僕は黒になってしまったから」
「お前は変わってないよ」
「嘘だ、そんなわけない」
「チェスの黒か白かみたいなのと何も変わらない。居る場所が変わっただけで、お前はまだ」
「五月蝿い」
「………J」
「黙れ、僕はJじゃない、ジャックナイトだ」
「お前はJだよ」
(昔からずっと、俺の手には入らないJだよ)
「違う」

ジャックは困ったように焦ったように、切羽詰ったように、違うと繰り返す。違う、違う。自分はJじゃない。ジャックナイトだ。
その姿はただの、黒い服を着たJだった。
黒い服は喪服。(そして確か白い服は死者への祈り、)ああJ、お前の服はお前にとても相応しいよ。自分自身を悼むための、痛むための。


「さよなら、ジャックナイト」




(ありふれた人生を、赤く色付けるような)

(たおやかな恋でした、さよなら)



2006.08.26 - kibitaki/Kugi