にせあかしあ

smile×J


夏のぬるい空気が体を撫でて行く。青を含んだ空の裾には橙、きわにはじわりと紫が滲んでいる。この高く青い空ももうすぐ夕。
どうしようもなくぬるく滞った空気は、どこか事後のような気怠さを体に纏いつかせる。このむわりと甘ったるい匂いがあるから、尚更だ。
か細い幹に寄りかかってずるりと腰を下ろすと、蝶に似た花の一つが目の前に落ちた。リネンのように純白。

「こんなとこに居たのか」

対して、その黒衣。気怠く風に揺らぐ学生服。真っ昼間の強い光の下ならいざ知らずこの夕では、影の色にも馴染まない。何となくそう思う。そこだけ切り取ったように黒々と、羽織った学ランが靡く。

「……藤か?」

この人らしい、と、その正解ではない呟きに小さな笑みが漏れる。ああ、この人はこういうことに無頓着そうだものなあ。むしろ藤を知っていたことに軽く驚きを覚える、くらいの。

「ニセアカシアっていうんですよ。藤なら蔓で巻きます」
「ニセアカシア?」
「本当の名前はハリエンジュといいます」

そう情報を付け足すと、スマイルはすごく興味がなさそうに眉間に小さくしわを寄せた。

「いい香りですよね。柊の花と似ている」
「女の香水みたいで好みじゃない」
「まあ、もう少し香りが薄ければ言うことないんですが」

ふと頭上を見上げる。藍色に暮れかかる天蓋に、ぼうっと燐光を放つように白い花房が無数に下がっている。ぬるい風が吹くたびに、花の鬱蒼と濃い香りが肺に満ちた。

「…この香りを嗅いでいると、酔いそうです」
「そうだな」

だけれど辟易したように息を吐く彼のその肺にも、このむっとした花の香りが満ち満ちている。そう考えるとこの空気でさえ愛しい。
夕暮れの最後の光に、鼠色の髪が透けて銀に輝く。一際強い風がびょうと吹き、ニセアカシアの梢を揺らした。
ざわり、と木が鳴く。冷たく鮮やかに。甘ったるい香りが明度を増して、体の芯を通り抜ける。

花が降る。
白い蝶が風に吹き攫われて、僕達二人の上に降る。

ああ。
春のつなぎめ、初夏の終わり。芒、と見上げた空には元通りの暮れ泥む色に梢が掛かっている。
夜の始まりに白い花が降る。

ふと、スマイルが目の前に下がっている花房から花を一つちぎり、口に咥えた。白い花が、蝶が、口元でひらりと留まる。憂鬱そうな顔が残りわずかな夕映えにひかる。眼を奪われた。とても綺麗に見えた。

「…何やってるんですか?」

渇いた喉を震わせて、やっと声を上げる。その顔が僕の方を向いた。顔をまともに見た。

「……なんとなく」
「…はぁ」
「蜜を吸える花とか、小さい頃探さなかったか?なんかそういうのを思い出して」
「…似合わないなぁ」
「ほっとけよ」

ふと僕は立ち上がっている。彼の片頬に手をかけこちらを向ける。口の端からニセアカシアの花がぽろりとこぼれた。白雪姫の林檎みたいだ、とこの場には似合わない例えを何となく思い浮かべる。

「そういえばニセアカシアの花って食べられるんですよ」
「気持ち悪。…口の中が全部花の匂いになりそうだ」

その返答に同意の笑みを返してキスをした。歯列を抉じ開けられるのにも身を委せて、舌を絡める。同じ空気を呼吸している感覚。酸欠のような頭の痺れ。ぬるい空気を掻く指。
口元からは仄かにニセアカシアの花が香る。

(………ああ、本当)(酔ってしまいそうだ)

暮れゆく木下闇。むわりと濃い花の匂いが、人を酔わすように立ち込めている。


2006.08.26 - kibitaki/Kugi